絵バカ対談レポート

 
去る六月五日、「大塚聰×会田誠 絵バカ対談」が無事開催されました―


 (大塚聰・作品)


というのは超嘘っぱちで、目的地を快く通過する快速列車などの工学的介入により、一時間遅れての無事ではない開催となった。午後1時というとんでもない早朝からお待ちいただいた方々、本当に本当にありがとうございました。


そんなわけで、会場は開始前からいいかんじにぐっだぐだで、役者が揃い次第そのままぐだぐだと対談にもつれこむという実にほがらかな雰囲気。大塚聰の膨大な作品群を初期から順にスライド上映しながらの対談で、背後のスクリーンを体を捻じ曲げて眺めていた画家ふたりは腰と首に大変な負担がかかったことだろうと思います(お疲れさまでした)。



それぞれに独自の道を歩んできた画家ふたりの対話は、倒錯した性や性の倒錯などほがらかな話題を巡りつつも、絵についての真摯な言葉を互いに引き出していった。なかでもひとつ興味深かったのは、大塚の個々の作品にふたりが言葉を重ねるにつれ、絵画における「コンセプト」と「絵画そのもの」というふたつのレイヤーについての議論が深まっていったことだった。


大塚は自作の価値を社会や常識に対する皮肉や反抗といった「コンセプト」的な側面に重きを置いて見る傍ら、会田はむしろそうした意図とは無関係な「絵そのもの」の魅力に大塚の作品の価値を見ていた。そして、会田は大塚の「コンセプト」への傾倒にやや疑念をもっており、「コンセプトは絵を描くきっかけくらいでいいのかもしれない」というところに話題を着地させた。



一般的に整理しておくと、「コンセプト」は概念や意味として読まれることで意識において理解するもの、そして「絵画そのもの」は色彩や描線として見られることで意識の一歩前(もしかしたら一歩後かもしれない)において体験するものといえる。たとえば林檎を描いた絵には、林檎という「コンセプト」と、赤く彩色された領域という「絵そのもの」のふたつのレイヤーがある。そして、絵に接するとき、人はこの「コンセプト」と「絵そのもの」のふたつのレイヤーの双方にどちらともなく属している。

たとえば抽象絵画は、この「絵そのもの」に向かおうとした試みだった。絵だけが表現できるものを表現することが絵の本質であり、じゃあもう「コンセプト」とかいらねーんじゃねーの、というのがその背後にあった考え方だった。そして風景や人物などの「コンセプト」は順当に排除されてゆき、やがて色と線の平面上の構成へと帰着していくことになる。また、その後に現れた概念芸術は、その逆をとって、「コンセプト」を表現するならもう概念だけでいいんじゃねーのという流れだった。いずれも極端の極へと向かおうとする試みだけれど、極端の極がかならずしもよいともかぎぎらない。


 (大塚聰・作品)


たしかに、大塚の作品のおもしろさは、おっさんや動物キャラや中華ロボといった特異な「コンセプト」を扱うことだけではなく、それらを「描かねばならない」という強い使命と確信に支えられた筆捌きがもたらす「絵そのもの」の快楽を過剰なまでに含んでいることにある。やもすればギャグになりかねない主題を一枚の絵として成立させる線と色の危うい快楽、それが大塚の作品の流行り廃りを越えた魅力であり、大塚があくまで画家たるゆえんだ。


たとえば、鎧のディティールで執拗に繰り返されるジグザグは、視線がそこに吸い寄せられるにつれ、鎧という意味(「コンセプト」)を失い、小気味よい反復のリズムにおいて「絵画そのもの」の姿を現す。また、中華ロボ戦隊の作品では、誇張された人体であるロボットの輪郭をなぞりながら所々で衝突し吸収される曲線と、隊員として色分けされた五つの彩りの秩序が、そこに踊る光にドラマを与えている。


そのようにして大塚は、おっさんという「コンセプト」のリアルな皺の描写においてもつれ合う無数の線を、動物キャラという「コンセプト」の頬の膨らみの再現において極端なまでの陰影を筆先に召喚しながら、もともとの「コンセプト」をおきざりにした「絵そのもの」の領域で爆発する色と線の快楽を、キャンパスという枠のなかに永久に捕獲する。そして、こうした絵画の快楽をドライブさせるに実に適した対象を選ぶ大塚の勘には、画家としての鋭い感覚を伺うことができる。


それこそが、かつて会田が1997年の《こたつ派》において世に問おうとした大塚聰という画家の稀有な魅力であり、また、独学の画家である大塚がアート界との接触を重ねるなかでもしかしたら失いつつあるかもしれないものとして、「コンセプト」と「絵そのもの」という話題のひきがねを引いた懸念でもあった。そしてそれは、画家ふたりがおたがいについて語ることで、それぞれが自問していたものでもあった。



批評の暗躍か、市場の圧力か、はたまた教育の弊害か、「コンセプト」的なものの蔓延は、それが洗練され強固な思考につながるよりも、むしろ求愛的・哀願的なモノマネや反射的・反動的なネタふりの身振りを作家に強いてしまうことがないともいえない。


そんななか、この対談のなかでふたりの画家が自問しつつ語り合った「コンセプト」と「絵そのもの」をめぐる問いは、必ずしも絵画やこのふたりの画家だけに関わるものではない、広く深い射程を捉えていたかもしれない。



大塚聰の初個展《山水大戰》《日常の捏造》は6/13日まで開催されています。


古くからある写真館を改造して作られた経堂のギャラリー・アンティークスタジオみのるは、一階をギャラリー、二階をカフェとして営業している。しかし、今回の《山水大戰》《日常の捏造》をもって一階の展示空間の運営をやめ、仕込みの効いたカレーの味に定評のある二階のカフェのみの営業となるとのこと。


ホワイトキューブというには少し入り組んだ、洞窟のように長細い、独特のあたたかみのある白い室内は、「絵を見る」という素朴で繊細なできごとのポテンシャルを活かすことのできる貴重な空間だった。画家として出発してから十数年を経て初めて開かれた大塚の個展が、この空間の最期を看取ることになる。