Chim↑PomのImagine展に行ってきた

 


Chim↑PomのImagine展に行ってきた。字がまちがってる(↑)のはご愛嬌。


会場は清澄白河無人島プロダクションで、「想像力」をテーマに視覚障碍者のハジくんといっしょに発案・制作された作品たちが展示されている。会期はChim↑Pom結成五周年である8月7日から911の十周年である9月11日まで。


展示はまず「コ」の字状にくねったまっくらな通路から始まる。暗闇のなかを手探りで進みながら扉を開けて「見えない」世界から「見える」世界に戻ると、スクリーンに大写しされたにらめっこの映像が目に飛び込んでくる。お互いに顔の見えないハジくんと友人のふたりが向かい合い、おかしな表情の応酬をつづていくうちにどちらともなく笑い声が上がる。ふたりを結びつけ笑いを惹き起こす「見えない」何かを映した映像は、傍観する者にスクリーンの表面を覆う「見える」ものの向こうへと想いを馳せさせる。これはもしかしたら「目を瞑って見る映像作品」なのかもしれないとためしに目を瞑り、「見える」世界から再び「見えない」世界へもぐってみると、その深さに思わず驚かされる。


特別に空間を仕切ったこの映像作品を抜けた先には、"IMAGINE"というタイトルのエロ本に点字を打ってオノヨーコの『グレープフルーツジュース』に改造したものや、カンバスいっぱいにキラキラのデコシールで「KIRAKIRA…」と点字を等間隔に打ったものなどが展示されている。このエロ本/グレープフルーツジュースのように見たものが見たままのものではないこともあれば、キラキラのように見たものが見たままのものであることもある。見えること/見えないことのボーダーを気まぐれに越えたり越えなかったりする作品たちは、見えるもののたしかさを揺さぶりながらも、そのふたしかさが決して共感の断絶ではないことを思わせる。


とはいえ、視覚障碍とアートというキーワードだけで、見に行くまでもなく「不謹慎だ!早く死ね!」と義憤に燃えてみせる道徳的な人もいるだろうし、やはり見に行くまでもなく「ああ、近代芸術の無自覚な視覚芸術化へのアイロニーという美術史的妥当性ね」と分析をご披露してみせる教養的な人もいることだろう。たしかに不謹慎だし、たしかにアート的に妥当だったりもするけれど、そう単純にいかないのがChim↑Pomのおもしろいところ。作品の前でじっくりと想いを巡らせていると、避けようと思えばいくらでも避けられるはずの不謹慎というリスクや(アートであるということも含めた)妥当性というダサさをあえて引き受けているわけが、そのゆたかさとともに少しわかる気がした。


あけすけにいえば、Imagine展はとても繊細で、わりと地味な、じつにアートらしいアートだ。きらびやかにショーアップされたおしゃべりなアート2.0バラエティショーの喧騒に慣れた観衆や、シーンやコンテキストといった世代・時代の流行り廃りの追っかけたちは、この展示を足早に通り過ぎたりそっぽを向いたりするかもしれない。それでもChim↑Pomは、ピカッに続いてますます、何の惑いも遠慮もなくアートらしいアートをやるようになっている。もしかしたらChim↑Pomの作品は、「いま、ここ」というかけがえのないリアリティへの介入を通じたコミュニケーションの場であるとともに、「いま、ここ」を越えて広がっていくリアリティへと記憶を託すモニュメントであることを、よりたしかなものにしつつあるのかもしれない。


見えるものだけを見せつづけるスペクタクルのなかで見えないものへと目を向けるようChim↑Pomが残した作品は、かつて光が世界を覆い尽くそうとするなかで闇に目を向けるよう谷崎潤一郎が残したことばのように、よりいっそうの切実さをもって、いまでもないここでもないどこかへいつか届くのだろうか?


私は、われわれが既に失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとは言わない、一軒くらいそういう家があってもよかろう。まあどういう具合になるか、ためしに電燈を消して見ることだ。

(「陰翳礼賛」)